開町450年 秀吉さんによって作られたまち 近世城下町の原型
天正元年(1573)浅井氏を滅ぼした織田信長は、羽柴秀吉に江北12万石の領地を与えました。秀吉公は今浜と呼ばれたびわ湖のほとりに長浜城を築き、そこに新たな城下町を作りました。後の天下統一の第一歩となった長浜城は出世城ともいわれます。
長浜のまちは、今日まで開町当時の町割りがほぼ残っており、現存する近世城下町の中では最も古く、今日のまちづくりの雛型ともいえるまちなのです。
町衆自治として、地場産業が発達し町民文化が栄える
江戸時代、長浜の町は朱印地(画像の赤線内)として税が免除され、多くの商人が来てにぎわいました。江戸時代には濱ちりめんやビロードなどの地場産業が栄えました。長浜の町は十人衆といわれる町民自治が行われて、多くの文化が花開きました。これらの町人文化の集大成ともいわれるのが長浜曳山祭です。(ユネスコ無形文化遺産登録)
長浜曳山祭は秀吉公にルーツを持ち、絢爛豪華な曳山の上では、子供歌舞伎が披露される日本三大山車祭の一つともいわれます。この偉大な祭を次代へ引き継ぐべく、今でも町衆に受け継がれているのです。
進取の気性 町衆の心意気がまちづくりを進める
明治に入って、文明開化の波にのり、長浜の町衆は滋賀県初の小学校、銀行などの施設を次々と作って町の発展に大きく寄与しました。行政が行うのではなく、民間がまちづくりを行うという長浜の伝統のルーツを見ることができます。
市民主導のまちづくり 黒壁と大河ドラマイベント
自分たちの手でまちづくりを行う、という現代のまちづくりの代表が「黒壁スクエア」です。まちを活性化したいという町衆の出資から生まれ、新しいガラス文化を町なかに持ち込み、全国各地の町がシャッター通りに苦しむ中、年間200万人を超える観光客を迎える街によみがえらせました。中心市街地活性化の代表事例として広く知られています。
また、「秀吉」「功名が辻」「江~姫たちの戦国」など、大河ドラマの当地となり、その大河ドラマ博覧会においては、多くの市民ボランティアが参加して成功に導くなど、市民主導のまちづくりが行われています。
人が輝くまちづくりを
長浜の魅力、それは長浜の町を作り、そこで石田三成公始め、多くの家臣をかかえて天下統一を果たした秀吉公にルーツをみるのかもしれません。私たち湖北ライフスタイル研究所も、新しい長浜のまちづくりをめざして取り組んでいます。